樹木希林さんの内田裕也さんへの愛は全人格的な愛だと本当に思う

昨日のニュースで女優の樹木希林さんが9月15日になくなっていたことを知りました。

内田裕也さんとの今までの関係をニュースで拝見し「ああ、樹木希林さんは内田裕也さんの人生を救っていたのだな」と言う思いがふと心によぎりました。

今回は、なぜこのように思ったのか述べさせていただきたいと思います。

樹木希林さんと内田裕也さんの離婚問題からくる関係性について

1973年に結婚からわずか一年半で別居にいたり、1981年に内田裕也さんが離婚届を提出されました。これに対して、樹木希林さんは離婚を認めず訴訟で勝ち婚姻関係は解消されませんでした。

これだけ見ると、樹木希林さんが内田裕也さんに対して一方的に心を預けていたように感じられます。事実、樹木希林さんは内田裕也さんを敬愛していた旨の発言をなされています。

しかし、一方的だったのかというとそうではないでしょう。本当に一人で大丈夫なら内田祐也さんの性格ですから離婚を諦めなかったでしょうから。

このときすでに、内田裕也さんは樹木希林さんに精神の居所をすでに見出していたのでしょう。

樹木希林さんの目線からみる心の動き

樹木希林さんの写真を拝見すると分かるのですが、常に遠くを眺めているように見えます。

実際に鏡の前に立って、自分の目線を観察してみてください。

リラックスして何も考えないようにすると目線は緩み、焦点は特定の物に向けられません。焦点が合わないということは、特定の物事に意識が捕らわれなくなります。

逆に頭を働かせ、緊張させると目に力が入ります。目線が鋭くなり、焦点は意識を向けているものに注がれます。意識を向けている対象に捕らわれてしまっている状態にです。

このことから、目線によってある程度精神の状態を推し量ることができます。

遠くを見つめているような目線をしている樹木希林さんは、特定のものごとに捕らわれていない。眼の前の物事に捕らわれていない。もっと広く、長期的な時間間隔でものごとを捉えていたのだと私には思えます。

樹木希林さんの受容について

内田裕也さんの本当の性格はわかりませんが、ご自身も述べられていますようにかなり無茶をされる性格だったでしょう。

実際の行動を見ても、事件のたび報道陣に家を囲まれたという話が出てきます。

普通の方なら我慢ならないでしょう。なんとか相手に変わってもらおうと奮闘してしまうのではないでしょうか?

それでも、相手を変えようとはしなかった。

受け入れられるからこそ、自分自身でいられる

相手がどこにいようと、その事実を受け入れる。

樹木希林さんが内田裕也さんの行動一つ一つに感情的に反応していたら持たないでしょう。

近視眼的なものの捉え方でなく内田裕也という人生を包み込むことにより、内田祐也さんの生き方を肯定し内田裕也さんも自分の人生を望むように表現できたのたと思います。

さみしければ、いつでも帰ってくればいいじゃないのという言葉。

内田裕也さんはプライドがあり帰ることはなかったのですが、これがどれだけ尖った生き方に安堵を与え、この生き方でいいという承認を与えていたことは想像に難くないでしょう。

最後に

多くの人は、自分を偽りなく表現できることに密かなあこがれがあるのではないでしょうか?

私はあります。だけど、世間の目があるため自己の存在を歪めてしまいます。変わった人に見られたくない、嫌われたくないといったように。

正直、樹木希林さんをテレビで見たときは取っ付きにくそうだなと思いました。

しかしこれは、自分より大きな存在を目の当たりにしたことによって、自分のプライドが刺激された結果だと分かりました。

人は自分よりエネルギーが高い人(成熟した人)をみると善悪を別として威圧感を受けることがあります。

神社に行ったとき得もいえぬ、畏れを感じることはありませんか?これは自分という存在が敵わない、または見透かされて外面を保てなくなる恐怖だと思います。

よく、恐怖(畏れ)を与えるのは悪いように説明されることがありますが、エネルギーの量的な問題でも畏れを抱きます。質(善悪)が悪いからとは限らないんですね。

樹木希林さんを初めて見たときの居心地の悪さの正体はこれでした。

現状を受け入れる。相手を自分の思うように定義したり、コントロールしないということは言葉ではありふれていますが、自分に正直なれば実践は難しい事がわかります。

自分の人生を通じて体現された樹木希林さんに最大の尊敬を込めて。

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